out of control  

  


   18

 ネサラに追い出されるような形で発ったあと、重い色の雪雲を眼下に見下ろして飛び続けて翌日、俺はノクス城に降り立った。
 休憩を取らなけりゃ夜中過ぎにはつけたんだが、夜は視界が悪いし、まして反ラグズ思想の根強いデインだからな。アイクたちと合流できねえ場合のことも考えて翌日にしたんだ。
 思った通り、空に俺の影を見つけた見張りの顔は強張っていたし、衛兵の動きも慌しくなった。もっとも、それで騒ぎを聞きつけたんだろうな。朝も早い時間だ。窓を開けて真っ先に俺を見つけたのはグレイル傭兵団の小さな弓使い、ヨファだった。
 アイクに話が通じれば後は早い。そういうわけで堂々と中庭に降り立つと、未だに手にした槍を収められずに緊張した衛兵は燃えるような赤毛の副長、ティアマトが制して石畳に膝をついて俺を迎えてくれた。
 ベオクってのは面白いな。誰かがまずそうすると「そんなものか」といった雰囲気で次々それに倣う。
 形式が必要な場合もあるってことは俺でもわかる。ましてここはデインだからな。 それから客室に通され、俺には通常の、ベオクには早い朝食の最中に遅れて戻ってきたアイクと固く握手をして挨拶を交わし、待ちかねていたリュシオンに急かされつつかいつまんで流れを話してひとまず落ち着いたのだった。

「うわあ、本当に背中から翼が生えてるんだ。いいなぁ」
「おう、便利だぜ。なにせ飛べるからな。なんだよ、ネサラと同じ隊にいた時にいっしょに風呂に入らなかったのか?」
「はい。ネサラ様は一人で入るほうがお好きだからって、お背中を流したりとかできなかったです。僕はお礼したかったんだけどな。あ、でもいつもニアルチさんがいっしょでしたよ。リアーネ様もいっしょに入りたいってぱたぱたしてたけど、それはだめって断ってました。だからリアーネ様はいつもタニスさんと入ってました」
「はは、目に浮かぶようだな」

 そんでもって今は優雅に朝風呂だ。冬が長くて木材の乏しいデインではフェニキスみてえな蒸気風呂が主流だそうだが、小さくてもやっぱり城だな。城の大きさから考えりゃ控えめだが、それでも俺が手足だけじゃなくて翼を出してゆったり寛げるだけの風呂がある。
 ヨファは朝稽古の汗を流すついでに俺の背中を流したいと元気よく申し出たんで、俺は笑ってそれを受け入れた。
 こいつは三兄弟の末っ子らしく甘え方が上手い。

「でも、そうやって消せるのが不思議です。どうやってるんですか? ホントになにもないや」
「ん?」

 剥き出しの背中から生えた俺の翼をひとしきりはしゃいで触ったあと、翼をしまって身体を洗ってると、ヨファは心底不思議そうに俺の背中をぺたぺた触って首をかしげた。
 どうやってるんだって訊かれても、難しいな。

「昔聞いたことがあるが、俺たちの翼は魔力の塊みたいなものなんだと。だから出し入れ自由なんだよ。化身するってのもそういうことだろうさ」
「へえ、すごいなあ。あ、自分で洗えます!」
「さっき背中を流してくれた礼だ。気にすんな」

 そういや、こいつとあまり喋ったことはねえんだよな。リュシオンとは気さくに風呂に入ったりしてねえようだし、てっきりラグズの身体が珍しいのかと思ったが、違うようだな。
 ぬか袋を取り上げて背中を洗ってやっていたら、照れくさそうに理由を教えてくれた。

「僕のお父さんって大きい人だったそうなんです。ボーレが良く似てるって言われてるけど、でもボーレの背中流したってぜんぜんそんな感じしないし。兄さんはどっちかっていうとお母さんみたいだし、アイクさんとかティバーン様って、もしかしたらお父さんに似てるかなーって思って」

 なるほど。そういうことかよ。
 確かまだ十五にもならねえんだよな。ベオクとしちゃそろそろ大人の男への仲間入りの入り口に向かうころなんだろうが、俺たちにとっちゃまだまだ雛だ。
 そろそろ筋肉の乗り始めた身体とついでに頭も洗ってやると、ヨファは湯船につかってうれしそうに礼を言った。

「楽しそうだな」
「あ、アイクさん!」
「俺も汗を流しに来た。鳥翼王、構わないか?」
「おお、もちろんだとも。大体、素っ裸で入ってきておいて今さらなに言ってんだ」

 笑って返事をすると、アイクは真面目な顔で「それもそうだ」と言いながら手桶でお湯を被る。
 こいつの裸を見たのは三年ぶりか。前の大戦の時にいっしょに水を浴びたことがあるが、あの時はまだ戦わせるのが心配なぐらいガキだった。だが今はもういっぱしの男の身体つきだ。ベオクの成長ってのは本当に早いんだな。

「ヨファ、のぼせるからそろそろ上がれ」
「えー? ティバーン様、僕、まだ平気なのに」
「真っ赤になってるだろうがよ。心配しなくてもしばらくいっしょだ。後でまた遊んでやる」
「ぼ、僕、そんな子どもじゃないよ! でも……絶対?」
「おう。約束だ」
「わかった。じゃあ二人とものぼせないでくださいね」

 やれやれ、まだあどけないもんだ。俺が笑って頷くと、ヨファは納得したようで元気よく湯殿から出て行った。
 こんな風に素直に慕われたらうれしいもんだぜ。

「なにか話があるのか?」
「あ?」
「今日も雪だ。明かり取り用の窓から入る光とランプだけじゃ、あんたの目じゃヨファの顔色なんか見えないはずだ。人払いはしてあるぞ」

 ………本当に大人になったな。肉に食いつく姿はまだまだガキだが、しっかりしたもんだ。
 ヨファと入れ替わるように俺の隣に腰を下ろしたアイクを見ると、俺は濡れた頭を一度掴むように撫でてから言った。

「話ってほどのことじゃねえが、問題の骨と土じゃねえ方の騎士ってのは出たのか?」
「ああ。一度戦った。クリミアの騎士も、デインの騎士も多い。あの渓谷が出所なのは間違いないと思う」
「やっぱり、弔えなかった連中か?」
「わからない。腕や足が折れたり、捩れていたり……もっと酷いのは頭が潰れた者もさ迷ってる。だから最初は岩の下敷きになったまま出してやれなかった騎士たちかと思ったんだが、比較的損傷の少ない者も見られるから、もしかしたら」
「弔ったはずの連中が出てきた恐れもあるってことか」
「…………」

 この辺りはセネリオに訊いた方がいいかも知れねえな。
 やり切れねぇ気分なんだろう。アイクは深く息をついて顔を洗い、そのまましばらく黙り込んだ。
 裸の付き合いってのはいいもんだ。それに、暗いしな。素直になりやすい。
 戦場に出ては鬼神の如く敵を屠る若い英雄も、本当は殺すこと自体が目的じゃないことがわかる。
 斬る方も痛いもんだ。身体じゃなくても、心の方は。
 ……でなきゃ、「人」じゃねえ。

「鴉王は?」
「後から合流する。ライとスクリミルもいっしょにな」」
「それは聞いた。そうじゃなくて、化身できるようになったのか?」
「とりあえずはできるようになった。ただ、結局原因はわからず仕舞いだ。ベグニオンの宰相…セフェランがよ、もしかしたらネサラの奴は化身しようとしないかも知れねえって言ってたんだが」
「化身できるんだろう?」
「ああ。だから、それについちゃ思い違いだろうとは思うんだがな」

 歯切れ悪く言った俺に、アイクが目を瞬いて視線を向ける。
 思い違い……のはずだ。現に、ネサラは化身できるようになったし、ためらう様子もねえ。
 しかし、なんだろうな。なにかが引っかかる。
 一体セフェランはどういう理由であいつが化身しようとしないかも知れねえなんて思ったんだ?
 だが、俺自身にさえ整理のついてねえ話をしてもしょうがねえからな。俺は「ちょっとのぼせちまったようだ」と立ち上がってこの話を終わらせた。
 風呂から出てようやく客室に落ち着いた俺を待っていたのはリュシオンと、ここの城主だという壮年のベオクだった。
 とても戦場には出られそうにねえ小柄で痩せた男だが穏やかながら眼光には力があり、丁寧に俺を歓待してくれた。これがデインの貴族だと思うと意外なぐらいだ。

「ご尊顔を拝し光栄に存じます。鳥翼王様。なにかご不自由はございませんでしょうか?」
「充分もてなしてもらっている。感謝してるぜ。この部屋も居心地が良い。遅れて来る鴉王もきっと気に入るだろう」
「鴉王様はお好みの難しい方と伺っておりますので、お気に召していただけましたら幸いでございますが……。それでは、どうぞごゆるりとお過ごしいただければと思います。何なりとお申し付けくださいませ」

 そういって優雅に一礼すると、城主は照れたように笑って下がった。
 ……デインの城主にしちゃあ、えらくまともじゃねえか?

「ティバーン、彼には本当に敵意はありません。このノクス領を治める一族の傍系の出身だそうです。クリミアにも留学経験があって、ラグズの友人もいたそうですよ。だからデインに帰って出世ができず、逆に生き残ることができたようです」

 内心で首を傾げてたんだが、俺の横に立っていたリュシオンが説明してくれた。
 なるほど……そういうことか。
 この客室は城の中でも一番上等な部屋だそうだが、そう言われてみりゃ「なるほど」と思う。
 デインは寒さの厳しい国だ。当然、石造りの建物は底冷えがする。
 だがこの部屋は絨毯も厚く、壁には隙間のないようにタペストリやさまざまな動物の毛皮をパッチワークにした壁飾りが掛けられている。窓も二重構造で大きい。
 用意された長衣(ローブ)や室内履きも全て絹で内側は毛皮張りになっていた。
 王であるとはいえ、俺はラグズだ。それなのにこの貧しい国でこの待遇は破格と言ってもいいだろうよ。
 なにより、調度品や配色の趣味も良い。派手でけばけばしいものは一つもなく、これだけでも城主の人となりが伝わって来た。

「それなら、さぞこの国じゃ居心地が悪いだろうな」
「そうですね。兵士たちの中には反発している者もおりますし……。でも、私はうれしかったですよ。アイクたちと最初にこの城に入って挨拶をした時、彼はおずおずと私に握手を求めてきました。その手からも喜びが伝わってきましたから」
「そうか。……目に浮かぶぜ」
「はい。ここでも多くのラグズが死にました。もちろん、ベオク…デインの兵も。城主となったエドモン卿はまず彼らを等しく弔うことを最初の仕事にしたと、この城の兵から聞きました」

 リュシオンの言葉に頷くと、俺は浅く腰をかけていたソファから立ち上がって窓辺に行った。雪が珍しいのか、外では領主の息子だという子どもとヨファが雪だるまを作って遊んでいる。
 ああやって雪を丸めて遊べるのもこの辺りまでだな。ここから奥に進むと、雪がさらさらになっちまってもう握ったぐらいじゃ固められなくなる。
 ここまで来た目的を考えたら、なんとも平和で穏やかな風景につい俺の口元が緩んだ。

「そう言えば、リアーネは元気でしたか?」
「おう。元気も元気で、『ネサラをいじめるな』って何回も噛みつかれたさ。ロライゼ様もラフィエルも元気だぜ」
「そうですか。それなら良かった。……それにしても、どうしてリアーネはそうあなたにネサラをいじめるなと怒るんでしょうね?」

 俺のそばに来て不思議そうに夏の木々に似た緑の目で見上げて首をかしげられて、俺は一瞬どう答えたものか迷った。
 とりあえず、俺がネサラに仕掛けた悪戯はばれてねえんだよな。言うと怒るだろうし、言わなくても余計に気にしそうだし、さてどうしたもんか……。

「ティバーン、どうなさったのです?」

 案の定、リュシオンが答えを求めて俺を呼ぶ。
 しょうがねえな。覚悟を決めて差しさわりのねえ部分まで白状しておくかと思ったんだが、そこで思わぬ助っ人が入ってきた。
 聞き覚えのある足音と、小さなノックの音。すかさず「入れ」と応えた俺の返事を待って扉を開いたのは、グレイル傭兵団の誇る頭脳、軍師のセネリオと副長のティアマトだった。

「失礼します」

 セネリオの方はまったく気にせずずかずか中まで入ってきたが、ティアマトは窓辺にいた俺たちを見て躊躇したようだ。

「申し訳ありません。もしかしてなにか大切なお話をなさっておられましたか?」
「いや、大丈夫だ。なにかあったのか?」
「デイン王と巫女がお会いになりたいそうです」

 前置きもねえな。セネリオの、まるで天気の話でもするように無造作な口調で言った台詞に、一瞬どういうことか考えちまったぜ。

「ここに来てんのか?」
「いいえ。もし差し支えなければ、ネヴァサに立ち寄ってもらえないかと、そういう話のようです。これはあなたの到着より前に、ジルが伝えてきました」

 用があるならそっちから出向けって言うのは簡単だが、翼がある俺が移動したほうがはるかに早い。まして今は冬のデインだ。まあ、どんな用件があるにしろ、そうなるだろうな。
 眉をひそめたリュシオンもこの件を知ってたんだな。もの言いたげなティアマトを片手で制して俺に言った。

「ネサラも呼ばれてるんです。……というよりも、会いたいのはネサラの方にだと思います」
「デイン王がネサラに? どうしてまた?」

 ざわり、と俺の胸に嫌なざらつきが走る。
 これはデイン王や巫女の人となりに対してどうこうってわけじゃねえ。ネサラとデインを繋ぐあの符号――。血の誓約を思い出したからだ。

「まさか、あの誓約絡みじゃねえだろうな」
「それはないでしょう。こういってはなんですが、デインが結んだ血の誓約はとても単純なものでした。印も、あの塔の中で誓約書を破り捨てるだけで簡単に消えてなくなった。あれはその印が浮かび上がって初めて効力があるものだとベグニオンの宰相も明言していますから」
「それならいいが、じゃあ理由は? 今回の件か?」
「はい。恐らくは」

 それならちょっと落ち着いて話を聞けるな。
 さすがに、国内で起こったことに関しちゃ情報も届いてるか。ただ、この騒動を収めるに当たってデインになにができるのか、……違うな。なにかできる余力が残ってるかどうかってのが次の問題だ。

「話し合いには僕も行きます」
「おう、アイクも行くんだな?」

 俺の返事に苦笑したティアマトににこりともせず頷いたセネリオは、少々意外な答えを返してきた。

「それももちろんありますが、鴉王もきっと応じるでしょう。あなた方ラグズはこういった面倒ごとは解決さえすればあとはいいというようないい加減な部分がありますが、鴉王は違います。今回の件でデインの責任をどう追及するか興味がありますので」
「ちょっと、セネリオ! 鳥翼王様に失礼なことを言ってはだめよ」
「事実でしょう」

 違いますか? とでも言いたそうな顔で見上げられて、俺もリュシオンもつい笑っちまったさ。ああ、その通りだからな。

「しかし、責任と言っても今のデインの国力では難しいのではないか? あの渓谷での戦いが惨いものだったとは私も聞いている。それだけデインも必死だったのだろうが……」
「そうですね。ですが必死なのはどちらも同じだからこそ、将の力が問われるんです。戦争に於いては、確かに兵は物資の一つでもある。ですが糧食とは違って大事にすれば何回でも使えるし、消耗も抑えられるものです。にも関わらず、ただひたすら死ぬまで足止めしてこいですからね。話にもなりません」

 デインに対しては相変わらずの痛烈な口調だな。もちろん外れちゃいねえが、セネリオの日頃の態度から考えると正直意外なほどだ。

「……セネリオはデインが嫌いなのか?」
「それは正確な表現ではありませんね。べつに王や巫女個人を嫌っているわけではありません。ベグニオンにしろデインにしろ、無能な者が権力を握ることに対して思うところがあるだけです」

 戸惑うように尋ねたリュシオンにそこまで言って、少し落ち着いたらしいな。小さく息をつくと、セネリオは紅い目で俺とリュシオンを見上げて少しだけな。唇の端を上げて言ったんだ。

「僕がこんなことを考えるようになったのは、ラグズの王になる資格の一つ、『民を守る力があること』という部分にアイクが共感してるからでしょうね」

 それは、本当にアイクだけか?
 そう聞くのは簡単だが、こいつもネサラと同じで素直じゃねえからな。リュシオンがうっかりそこをつつく前に話を変えちまおう。
 そう思って俺はネサラが化身できるようになったこと、そのネサラの意向を確認してからの話になるが、俺個人としてはデイン王の呼び出しに応じるつもりがあることを伝えた。

「……わかりました。では、その旨をダルレカの領主夫妻に伝えます」
「え? まさか、ここに来ているのか?」
「いえ、エドモン卿に仕える鴉の民がいるんですよ。ベグニオンの…奴隷から解放された方らしいです」

 驚いて訊いたリュシオンに答えてくれたのはティアマトだった。
 ベグニオンの解放奴隷だと? まさか、ここの城主まで……!
 俺の表情で察したんだろう。ティアマトが微笑んで首を横に振る。

「違います。帰る場所のない彼らを、エドモン卿が受け入れたのです。それは私たちが本人の口から聞きましたから間違いはありません。……それでは、私どもはこれで」
「どこか行くのか?」

 見慣れた姿だからなんとも思わなかったが、そういやティアマトは甲冑姿のままだ。そう思って訊くと、ティアマトは騎士の礼を取ってから答えた。

「近隣の村に賊が出たそうです。城の兵はまだ経験が浅い者も多く不安があるので、私とセネリオが同行します」
「賊が? それなら俺も行くぜ」
「お気持ちは有難いのですが、この辺りはまだラグズに対する反感も根強いのです。ですから……」

 慌てて俺を止めようとするティアマトを遮って、「お願いしましょう」と言ったのはセネリオだった。
 なんだ、一番止めそうな奴が珍しいな。リュシオンも俺と顔を見合わせる。

「セネリオ、でも…」
「ずいぶん被害が出ているようです。リュシオン王子にも同行していただいて、落ち込んだ村民を励ます呪歌を謡っていただきましょうか。その後はお二人を中心に取り戻した食料を配りましょう。誰が飢えを満たしてくれたのかを村民の胃袋に焼き付けてやればいいんです」
「食料って、そんなにあるのか?」

 危険な場所に行くというのに当たり前に指名されたリュシオンがうれしそうに笑った後で、セネリオは相変わらず厳しい表情で続けた。

「少なくとも、その村に配れる分はあったはずですから。今暴れている賊は、元はデインの兵だった連中です。……ガリアからの救援物資を手にして飢えた民に分配することを厭い、持ち逃げしたんですよ」

 なんつーか……そりゃ、頭の痛い話だな……。
 ラグズからの救援物資なんだから、ラグズである俺たちが配ればいい。
 実にわかりやすいやり方だ。
 とにかく、今は急を要する。思うことがないわけじゃねえが、助けてやれるもんなら助けるべきだ。
 俺とリュシオンはなんとも憂鬱な思いで出発した。
 話を聞いたアイクもいっしょに行きたがったが、セネリオとティアマトが許さなかった。二人曰く、英雄であるアイクを知ってる連中がいれば、俺の手から食料をもらってもみんなアイクを見ちまうから駄目なんだと。俺はべつにそんなことどうでもいいんだけどな。
 結局、グレイル傭兵団から同行したのはティアマトとセネリオ、それからヨファだった。アイクの方は留守番を言い渡された少年兵に囲まれて稽古をせがまれていたから、気も紛れそうだ。
 とにかく急を要するってんで、城から同行した兵士は騎兵ばかりだった。もう引退していたらしいが、国の窮状を見かねて帰ってきたという老騎士の隊長と、ろくに実戦を知らねえ兵が数人。たったそれだけだ。
 ……この数人を出すのも辛いほど、人が足りないのが現状なんだな。腕はあっても誇りのねえやつらを抑えられる人材もいなくなった。だからこんなことが起こるんだろうよ。
 村の場所は、ノクス城からそれほど離れちゃいなかった。馬なら半日もかからねえな。俺だともっと早い。
 本当は俺だけ先行してとっとと連中を片付けようかと思ったんだが、それはセネリオに固く止められちまった。
 ベオクだろうと女や子どもが酷え目に遭わされてると聞いちゃ堪えるのは一苦労だったが、ベオクの国ってのはそれだけややこしいってのもわかってる。
 だからようやく村が見えた時はほっとした。これでやっと気持ちも晴れると思ったからな。
 だが、上空からいざその村の惨状を見て、俺はリュシオンをノクス城に帰したくなった。
 雪がちらつく村は、まるで廃墟のような有様だったんだ。無事な家は一軒もねえ。
 窓にはぼろきれが張られ、蔵という蔵は破壊され、収穫を終えて春までは土を休ませるために整備されているはずの田畑は、ここを荒らした連中のものか、それとも行軍したどちらかの軍のものか、踏み荒らされた馬の蹄の跡が生々しく凍りついたまま残っていた。
 村長の家らしいな。村の中でも小高い場所に一つだけ残ったやや大きな家だけは無事だったが、肝心の主は無事じゃないらしい。そこが連中の根城になってやがった。
 村を覆った負の気配にリュシオンは顔色をなくしていたが、それよりも姿を見せない村人たちの惨状を慮って怒りに拳を握り、老騎士の隊長も義憤に駆られた様子で使い込んだ槍を掲げて部下たちに檄を飛ばした。
 その声に息を殺していた村人たちが一人、二人と顔を出し、俺を見て露骨に怯えた者もいたが、老騎士とティアマトに取り成された後はただ遠巻きにされただけだった。
 ほとんどが老人で、あとは女と年端も行かねえ子どもばかりだ。誰の顔にも生気がなくて、いっそ憎しみを込めて石を投げられた方がましなぐらいの惨い有様に、俺は苦い思いで拳を握った。
 リュシオンも青白くしていた頬を赤くして怒りに燃えた眼差しで戦いに備えたぐらいだ。
 決着は、一瞬で着いた。
 二十人にも満たねえごろつき如きが俺たちに敵うかよ。
 もちろん、血気に逸る若い騎士連中を庇う必要はあったが、それでも瞬く間に俺たちは連中を制圧した。
 一人、泣き叫ぶ半裸の娘の髪を掴んで奥から引きずり出して、人質にして逃げようとした阿呆がいたが、そいつの顔面にヨファの鋼の弓が深々と突き刺さって終わった。
 大した腕だぜ。後から褒めると、ヨファは自分が射った男への怒りも露に悔しそうに言ったんだ。

「シノンさんなら、あいつがぎゃあぎゃあわめく口の中に直接矢をぶち込めたのに!」

 ……なるほど。確かにそうかも知れねえな。
 それを聞いて笑えるようになったんだから、リュシオンは本当に戦場に対して耐性ができたよなあ。

「よし、それでは屋敷内を改める! 隠れている者がいたら危険だ。物陰や扉を開ける際には充分に気をつけよ! 糧食は屋敷の前に集めるのだ!」
「はッ!」
「セネリオ、連れ去られた娘さんたちもいるはずだから、私も中を探すわ。あなたはここで集まった糧食を平等に分配できるようにしてちょうだい。ヨファは私の後ろをついてきて」
「うん、わかった!」
「わかりました。それでは、リュシオン王子も手伝っていただけますか?」
「私が? ……わかった。なにをすればいいか教えて欲しい」

 老騎士の指示に若い兵が屋敷内に入り、遅れてティアマトとヨファも続く。
 有難いな。セネリオは娘たちの惨状を考えてリュシオンを引き止めてくれたんだろう。
 ………予想が外れてくれてりゃいいが、こんな時に女を連れ去った暴漢どもがやることなんざ一つに決まってる。
 根城になっていた屋敷の中も、無残な有様だった。食料を大切に使う気持ちさえなかったのか、至る所に酒の瓶と食い物が散乱し、どこもかしこも汚れて酷い匂いだ。
 ただ、一応先のことを考えていた奴もいたんだろうさ。居間のテーブルの上に、奪った糧食の分量と、それをどこに売りつけるかの計画を殴り書きしてあるものも見つかった。
 俺にできるのはとりあえず力仕事だな。そう考えて大きな酒樽を引き受けて何往復かしたあとに激しい泣き声が聞こえてきて、娘たちが生きていたらしいことだけはわかった。

「中に動けない娘もいるの。寝かせてあげられるよう、村に知らせてちょうだい。セネリオにも回復の杖の準備を」

 沈痛な面持ちのティアマトに肩を抱かれて出てきたのは、いくつも重なった痣と腫れで顔立ちもよくわからねえが、ヨファと同じぐらいの娘だった。娘たちはいくつかある個室の中に、一人ずつ放り込まれていたそうだ。
 中には歯を全部砕かれて顔が腫れ上がり、虫の息になった娘や、ヨファよりもずっと幼い少年まで繋がれていたと聞いて、俺は怒りの余り生け捕りにした連中を改めてぶち殺しに行きたい衝動を押しとどめるのに苦労した。

「まだ何人かいるのか?」
「はい」

 俺も助けてやりたい。
 だが、俺の顔を見ると怯えさせるだけかも知れねえな。
 そう思って迷っていると、ティアマトは目顔でヨファを呼んで言った。

「どうか行ってあげてください。……怖がるような気力もありません。兵たちも自分のマントを着せてるぐらい。私も一刻も早く暖かい場所に移してあげたいのです。ヨファ、あなたはセネリオが治療する間作業を代わってくれる?」
「……うん」

 ティアマトの言葉が終わる前に、ヨファが真っ赤な目を逸らしたまま頷いて俺に木綿のシーツを渡した。それなら、俺のやることは一つだ。
 ヨファだけじゃねえ。呆然とされるがままになった幼児二人を抱えた老騎士も、それぞれマントをかけて娘たちを連れ出してやった若い騎士たちの目にも涙があった。
 夫や恋人を戦争に奪われた挙句、飢えと戦っているところに救援物資をわけてくれるはずの兵にこんな目に遭わされたんじゃ、その絶望感は察するに余りある。
 最後に残ったのは、俺が入った部屋の娘だ。子ども部屋だったんだな。かわいらしい人形やぬいぐるみが転がり、小さな寝台の上に満身創痍の村長が何度も俺たちに救出を懇願した孫娘がいた。
 ほとんど抵抗はしなかったんだろう。歯も無事だし他の娘ほど酷い痣はないが、それでも虚ろな目をした幼い娘は俺が入ってきても肩を揺らして強張っただけで自分の裸を隠す気力もなかった。
 ……生かして捕らえるべきだ。少なくとも、こういうことをしたらどうなるか、阿呆どもに知らしめなきゃならん。
 だからなるべくは生け捕りにしたんだが、そんな状態の娘たちを返された村人たちの怒りは凄まじく、俺たちはもう少しで今度は村人たちを鎮圧するために戦う羽目になるところだった。
 そこを抑えたのは老騎士だ。激昂する村人たちを両手で制し、朗々とした声で宣言したんだ。
 今日捕縛した連中は必ず裁かれること、刑の執行は見届けたい者がいるなら、代表者だけでも見届けられるよう取り計らうこと。
 なにより、太い革紐で繋いで一列に並べた連中を引きずり出して付け足した一言が大きかった。

「これがそなたたちの大切なものを奪い、傷つけた罪人どもだ。とくと見よ! そして脳裏に焼きつけよ!」

 打ちひしがれ、ぼろきれのようだった村民たちには、もう無気力な空気はなくなっていた。
 誰一人声も上げねえ。
 あの痩せた身体のどこにそんな力が残っていたのかというほど恐ろしい、殺気のこもった視線がひたすらに、無言で連中に突き刺さり、中には怯えて失禁する奴までいたほどだ。
 この辺りはさすがにリュシオンには負担が大きい。ティアマトに頼んで少し離れさせたが、それでもだいぶ堪えたろうさ。
 それから最初の計画通り、俺とリュシオンが一人一人に取り返した食料を配った。
 もともと、ガリアの獅子王からのものだってのはセネリオも伝えていたし、感謝されたさ。だが、複雑だな。
 その感謝はただ俺たちが娘を、この食料を取り戻すために戦ったから向けられたものだ。
 今は俺たちを半獣だと蔑む気力もねえだけで、……いや、それだけじゃねえな。
 同じベオクであるはずのあの連中の行いが酷すぎただけだ。
 こんな上辺だけの行動なんか、意味があるのか? セネリオにそう言いたかったが、やせ細った子どもが俺の手からわずかなパンと酒を受け取り、ひび割れた唇で礼を言われて、俺はただ頭を撫でるぐらいしかできなかった。
 それから思い直した。たとえ偽善でも良い。この子どもを哀れむ言葉だけの善意よりも、腹に一物あろうがひとかけらのパンを渡せるなら偽善だって充分意味があるはずだ。
 そして捕縛した連中を引きずるように老騎士とティアマト、若い騎士が二人先に発ち、残された傷ついた人々を包み込むように、リュシオンの歌声が響き渡った。
 これは「喜樂」の呪歌だな。戦闘に出ることの多かったリュシオンはあまり謡わなかったが、こうして聴くとさすがは鷺の王子だ。……胸に沁みるぜ。
 ――負けるな。顔を上げろ。
 そんな思いがリュシオンの呪歌から伝わってくる。
 一度は国を、民を全て滅ぼされた王子だからこそ、その思いはより激しく、熱く聴く者の魂にまで届くのかも知れねえ。
 そんな気がするほど、リュシオンの呪歌は力強かった。
 歌声に誘われるように、いつの間にかそれぞれただ寝台に寝かされていたはずの娘たちまで窓から顔を出していた。
 誰の目にも涙が光る。それはもちろん喜びの涙ではなかったが、確かに胸にわだかまる辛さを、嘆きを洗い流し慰撫する……そんな涙だった。
 だが、セネリオは違うようだな。
 一人離れた場所から冷静に広場に集まった村人たちとリュシオンを眺めてやがる。

「どうした?」
「……予想以上に物資が減っていました。今ある分だけでは春まで持ちそうにないと考えていたのです」
「ノクス城から持ってくる…わけにゃ行かねえな」
「ええ。情に篤いようでその辺りはしっかりと『王』ですね。助かります」

 そう言って小さくため息をついたセネリオを小突きたくなったが、そんなことをしたらへそを曲げてまともに話ができなくなりそうだから我慢だ。
 ……この村だけなら、ノクス城の食料で助けてやれる。だが、窮地に立たされた村はここだけじゃねえ。
 飢えた人々全員に平等に食料を配れば、結局は全員が助からない。
 こいつがアイクを置いて来たもう一つの理由も見えたぜ。あいつはまだまだ若い。目の前で苦しむ者がいれば、見えない場所で苦しむ者のことをわかっていても絶対に手を出したくなる。
 ……出せなけりゃ、苦しむ。だからだろう。
 しかし、それなら誰を、どこを助けるんだ? 
 この問いをリュシオンが謡っている間にセネリオにぶつけると、セネリオはしばらく瞑目し、やっぱりあの感情のこもらねえ声で答えやがった。

「特産品を生み出せる村と、老いていても次代に繋ぐ技術と知識を持った者、それから子を産める女性、子どもが優先ですね。男は、選ぶべきです」

 ………やりきれねえな。
 だが、それが現実かも知れねえ。
 戦に敗れるってのはこういうことだ。
 俺は王としてこの現実を受け入れなきゃならねえ。自分の民に同じ思いをさせねえために。
 そんなことを考えながら、俺は春にはもうそこにいねえ者もいるだろう村人たちの笑顔を、ただ遠くから見守った。
 これで仕事は終わったんだが、野盗の警戒はしなけりゃならねえからな。村には、最初からそのつもりだったと若い騎士たちが残った。俺にできることはせめてこいつらの分の食料として、野豚を狩って残して来るぐらいだ。
 翌朝、村民に感謝されながら見送られてノクス城に戻り、夕食で好物の肉を目の前にしても俺の気持ちはまったく晴れなかった。
 城主には肉が小さくて申し訳ないと詫びられたが、もちろんそんなことどうでもいい。こんな時に平然と笑って食えるようにならなけりゃいけねえんだろうなあ。
 ネサラみてえによ。
 心で呟いただけのはずが、どうも駄目だな。
 こんな時、あいつだったらどうするのか、きっと俺よりも上手く立ち回るんだろうとか……考え出したら止まりゃしねえ。
 いっそ迎えに行っちまおうか? そう思いながら凝った餡がかかったふかし芋を食ってたら、俺の思考が伝わったんだろう。リュシオンが目を丸くして俺を見ていた。
 この夜は、長かったな。
 連中の裁きは間違いなく城主が約束したから少しは気分がましになったが、ちょっと寝ては吹雪の音で目が覚めて、あいつらが遭難でもしてねえか心配したりな。
 まあライとスクリミル、ネサラの三人が揃ってそんなこともねえだろうが、山ってのは怖いもんだ。飛べる俺たちでもそれは知ってる。
 リュシオンも心配なんだろうな。隣の部屋なんだが、夜中に二回ばかり窓を開けて外を見てるらしい気配があった。
 そして翌日。夜明けを迎えて間もない頃にまずネサラが着いて、ライとスクリミルがすぐに来ることを城主に知らせた。

「ネサラ!」

 幸い、雪はもう小降りだ。兵士たちが慌てて雪かきを始めた中、放っておくとそのまま二人の元へ戻りそうなネサラをつい呼び止めると、ネサラは整った顔に見慣れた皮肉げな笑みを浮かべて俺を振り返った。

「迎えにはティアマトとこの城の騎士が行く。おまえも疲れてるだろうが。来いよ」
「この程度の距離、疲れたというほどではありません」

 ったく、俺が嫌がるのを知っててまたそういう口調で話しやがる。
 こうなったら強引に腕を掴んででもと思ったところでやっと起きたんだな。また窓が開き、「ネサラ!」とリュシオンの声がした。
 やれやれ。あいつもだんだん俺たちに似てくるな。
 行儀も忘れてそのまま狭い窓から飛び出したリュシオンに驚いたように目を丸くすると、ネサラはようやく諦めたように一晩でまた雪が積もった中庭に降り立った。

「ネサラ、ネサラ! ああ、良かった。心配していたんだぞ」
「なにをだ? はン、翼があって雪山で遭難したりはしないさ。他の二人も頑丈なことこの上ないしな」
「私だけじゃない。ティバーンもどんなにおまえの身を案じたことか! こんなに冷え切って…! さあ、風呂に入ろう」
「は? いや、それは不味いだろう。城主との会談もまだだし、なによりスクリミルとライがまだだ。スクリミルを差し置いて俺がそんな……」
「そんなこと、ぐだぐだ言うような者じゃないだろう!」
「だから、そういう問題じゃなくてな……」

 弱り果てたネサラにさらに畳み掛けるリュシオンの図は、ベオクから見ても面白いらしいな。
 どいつの顔にも不快なものはなくて、むしろ楽しそうにこのやり取りを見ていた。
 城の連中は昨日の俺たちが捕まえたあの村の暴徒どもや村の惨状を聞いて暗い表情になっていたから、いい気晴らしになったのかも知れねえ。

「リュシオン。ネサラに会いたかったのはおまえだけじゃねえし、こんな場でネサラが礼節を大事にするのは知ってるだろ? そろそろ勘弁してやれ」
「ティバーン、ですが」
「あとから必ず俺が風呂に放り込む。それでいいだろう?」
「………わかりました。どちらにしろ、私ではネサラを力ずくで連れて行くことはできませんからね。ネサラ、ティバーンの言うことをよく聞くんだぞ? わかったか?」
「はいはい、ったく、俺はいくつの子どもかね?」
「私の方が年上なのは間違いないんだ!」

 長命の鷺と鴉を比べた場合、ある程度まで来たら年齢がひっくり返る気がするんだが気のせいか?
 そうは思ったが、こんなことを口にしてまたリュシオンが怒り出したら事だからな。心に蓋をしながら黙って、俺はようやくリュシオンの手から離れたネサラに駆け寄るヨファを見守った。
 ヨファもずっと声を掛けたそうにうろうろ見てたからな。やっぱりガキは優先してやらなけりゃいけねえだろ。

「ネサラ様!」
「ヨファか。……少し背が伸びたんじゃないか?」
「うん、もうすぐキルロイさんに追いつくんだよ! ネサラ様は元気でしたか?」
「あぁ、見ての通りだ」
「やっぱり風邪ひいちゃったの!? わあ、お風呂入らなくちゃ!」

 駆け寄ってきた自分の頭を撫でながら答えたネサラに大慌てになったヨファに、リュシオンがまた目を吊り上げたが、俺は「ぶっ」と吹き出しちまった。
 ははは、そう見えるよなあ?

「こいつは色が白いからな。だが、風邪をひくほど弱っちゃいねえよ」
「え、そうなの!?」
「そうだ。………まあ、俺は黒尽くめだし髪も蒼いからな。しかし、そんなに顔色が悪く見えるかね?」
「え? うーん……どうかな。そう言われてみたらいっつもそんな顔色だったような……」
「それならそういうことにしておけ。とりあえず、俺の体調に問題はない」
「ネサラ様がそう言うならいいか。はい、わかりました!」

 これ以上ここにいるとまたリュシオンが騒ぎ出しそうだな。
 やれやれとため息をついたネサラの腕を取ると、俺は勢いよく羽ばたいた。

「おい…!」
「ティバーン、どちらへ行くのです!?」
「連れて行きたいとこがあるんだよ。どうせ風呂のあとで昼飯だろ? すぐに戻る」

 リュシオンも驚いて俺を見上げたが、俺は適当に答えてそのままネサラを連れて飛び立った。
 兵たちも俺たちを見て目を丸くするが、この城に来た直後みてえに眉をひそめてどうこう言う奴はいねえ。見慣れりゃこんなもんだ。ましてここには鴉もいるらしいからな。

「どこへ行くつもりだ?」
「城の裏だ。……怒らねえのか?」

 そんな気になれねえぐらい疲れてんのかとちょっと心配になったが、ネサラは俺に腕を掴まれたままため息をついて乱れた前髪をかき上げた。

「いい加減怒るのにも飽きた。なにがあった?」
「あ?」
「あんたがこういうことをする時は、なにか辛かったり嫌な思いをした時だ。リュシオンに見せられないものもあるだろ。俺はあんたより心を閉ざすのが上手いぜ?」

 ノクス城は小さな城だ。まして今の俺たちのいる高さは城壁にも満たない。
 窓の向こうには洗濯婦の目もある。兵だってまだ俺たちを見てる連中がいるだろう。
 すましてると冷たく見えるが、俺を見て笑ったネサラの顔は優しい。
 切れ長の濃紺の目に浮かぶ労りを見つけて、俺はネサラを抱きしめたくてたまらなくなった。
 でも、我慢だ。……俺はいい。
 だが、こいつに対して妙な好奇心や嘲笑が欠片でも向かっちゃならねえ。
 そう思ってただ白い息をついて湧き起こった衝動を堪えると、俺はなにも答えずにネサラの手を引いたまま城の裏に向かった。
 途中でするりと俺の腕を解いたネサラがそっと俺の腰に腕を回す。まるで自分の温もりを分けるように。
 ったく、可愛いことをしやがるぜ。だが、悪くない。
 それが恋人のような仕草だと言えば、こいつは慌てて逃げるかも知れねえが。

「なんだ? これは…墓標か?」
「ああ。ノクス城を攻めた時に死んだ、ベオクとラグズの墓だ」
「ベオクとラグズの……」

 城の裏側は、ここが城であることを忘れるほど狭い。それでもここにある花壇の数は多く、春になればさぞ綺麗だろうと思われた。
 眉をひそめてわずかに俺に身を寄せたネサラの肩を抱くと、俺たちは揃ってゆっくりと小さな墓標の前に降りた。
 毎日ちゃんと手入れがされてるんだな。墓標になった灰色の石も磨かれたように綺麗で、雪もそんなに積もってない。
 墓標に刻まれた文章は、簡潔だった。

『勇敢なる戦士たちがここに眠る』

 ベオクでも、ラグズでもねえ。ただ「戦士たち」とだけ記された事実がうれしい。
 墓標の上の雪を素手で払うと、ネサラが懐から出した手巾でその俺の手を拭いた。

「今思えば、俺たちにもやりようはあったのかも知れん。犠牲を減らす目的でデイン領を抜けるつもりが、こういう結果になっちまった。もっとも、デインを避けて正面衝突覚悟でベグニオン領に乗り込んだとしても、デインとしちゃ必死で食らいつくしかなかったんだろうが」
「……デインにはまともな軍師がいなかった。戦略を考える時間も、覚悟を問われる時間も……たぶんなかったんだろう。それに、ただ軍が通るだけでも領民たちには迷惑な話だ。そういう意味では、武力衝突が避けられないこと自体は無理もない。俺が王なら、自分の国の不始末のくせに人の国を通るとは何事だと言い返すさ。もちろん、通らせるに当たってはそれなりのものも要求するしな。……ただ、前回の一方的に始めた戦争のことを思えば、そう簡単な話にはならないだろうとは思う」

 セネリオはデインに対して殊更辛辣だ。俺もまったくそんな部分がないわけじゃねえが、それでも哀れに思うことはある。もちろん、それはあのデイン王や巫女じゃなく死んでいった兵に対してだが、こいつはそのどちらも不憫に思ってるんだな。
 冷たくなった墓標を見つめたままぽつりと言ったネサラの言葉を待っていると、ネサラは俺の手を拭った手巾をたたんで握ったまま続けた。

「誰もが土壇場で冷静になれるわけじゃない。俺は血の誓約を先代から引き継いだし、対処法を残してくれたこれまでの王の手記があったが、デインは違う。自分の判断の誤りで取り返しのつかない事態にしてしまったデイン王もきっと苦しかっただろう。もちろん、だからと言って死んでいった兵士たちのことを思えば、そう簡単に慰めるわけにはいかないし、後悔も、兵士たちの無念も、残された家族たちの恨みも、全て受け止めなくちゃならないんだが」
「巫女もだろ?」
「……そうだ。たとえ望まなかったとしても、それが総大将になった者の責任だ」

 デイン王も、巫女も、市井の出身だそうだ。だったら、大きな局面に対応できずに目の前のことだけでいっぱいいっぱいになっちまうのは仕方がねえのかも知れねえな。
 それでこんな時代に王に、将軍になっちまった本人たちも、そんな二人を戴かなきゃならなかった民も不幸なことだが。
 自分たちで手に負えねえとわかっていても、それを引き継げる先がなかったならどうしようもねえ。ただ、将軍の仕事に関しちゃタウロニオ将軍がもう少し踏ん張ってやるべきだったんじゃねえのかって気持ちはあるが、殊に身分に重きを置くベオクにゃ厳しい話になるか。
 ……キルヴァスは違ったんだろうよ。キルヴァスの先代の王には、ネサラがいた。
 鴉王になれるだけの力と、ラグズにはない冷静さと頭脳を持ったこいつがな。
 あの親父さんの血を引いていて、雛のころから才能は明らかだったんだ。次代の王位を見据えた教育もされていただろう。強引な形での王位継承だったのは違いないが、それでも託すことのできる先があるのとないのでは違う。
 デインとキルヴァスの一番大きな違いはそこだったんじゃねえかと思う。

「そのデイン王と巫女がな、ネヴァサに来てくれねえかだとさ」

 俺の言葉を聞いて、伏せられていたネサラの睫毛が上がる。意味を尋ねるように向けられた濃紺の視線に頷くと、俺はネサラが握ったままの手巾を取って湿った蒼髪を拭いてやりながら続けた。

「おまえに会いたいらしい」
「俺に? なんでまた」
「心配しなくても誓約絡みじゃなさそうだぜ。話がしたいんだとよ。恐らくだが、政(まつりごと)に強いおまえに助言を求めてくるんじゃねえか?」
「ラグズの俺に? そんなの、他の連中が黙ってないだろ」
「個人的なダチを食事に招いたんだから出て行けで済む話じゃねえのか? 今回の騒ぎがあって俺もデインのあちこちを見たが、確かにこのままじゃ不味い。かといってどうすりゃいいのか、政の経験のねえ二人じゃ厳しいかもな」
「…………」

 心当たりはあるんだな。俺もそうだ。
 こいつは巫女と、俺はデイン王と同じ隊で女神の塔を目指した。
 戦闘については弱い身体を押してがんばっちゃいたが、俺の印象じゃ王としちゃまだまだ頼りねえどころじゃねえ。デイン王はいきなり王にされたらしいからな。これから必要なことを勉強しようって時にあの戦争だ。
 途方に暮れながらなんとか良い王になりたいと足掻く姿を思い出したら、どうにも可哀想に思えてならねえ。

「わかった。どの途、今回の騒動はデインも大きく関わっている。その点を見てもなんの挨拶もせずに置くのは良くない」
「そうか」
「俺にできる助言なんてろくにないだろうが……まあ、もし求められたらいくつか考えてあることを進言してみよう。いや、そう言うと大げさだな。世間話に織り込めばいいか」

 なんだかんだ言いつつ、こいつも気になってたんだな。ったく、可愛いやつめ!
 顔が見たくてたまらなくなった昨夜の衝動がまた戻って、俺は顎に指を当てて考え始めたネサラを抱きしめた。

「おい、こんなところで…!」
「誰も見てねえよ。会いたかったんだ」
「ほんの一日だろ。なにを言ってるんだ?」
「その一日が長かったんだよ。いろいろあってな」

 柔らかい蒼髪に鼻と口を埋めるようにして呟くと、逃げようとしていたネサラがおとなしくなった。

「だから、なにがあったんだって訊いてるだろ?」
「んー…寝る時でいいか? この場で全部言う自信がねえ」
「言っとくが、今日は一人で寝ろよ」

 口ではそう言いながらでも強張っていた腕がおずおずと俺の背中に回り、慰めるようにそっと撫でてくる。
 その優しい仕草に皮肉屋で狡賢い鴉王として立ち振る舞っていたネサラの本音が現れているようで、なんだか無性にうれしくなった。
 皮肉屋の顔は、今でもあんまり変わってねえ。でも、確かにこいつは変わった。もう偽るものはない――。そう言ったあとから。
 たとえ少しずつでも、今は反感ばかりの連中にもこいつが本当はどんなにいい奴かがわかるだろう。
 こんなネサラを独り占めしたい反面、今でもこいつを冷たいと誤解してる連中に知らしめたい気持ちもある。
 いい気分でしばらく森の気配の混じった甘い体臭を嗅いでいたら、ネサラが身じろいだ。

「なんだよ?」

 なんだか、困ったような仕草だな。そう思って少しだけ離して訊くと、じんわりと赤くなったネサラが切れ長の視線を逸らして言ったんだ。
 どうもこいつは無意識に煽りやがるな。

「いつまでもそんなところで息をするな」
「なんで? いい匂いだぜ?」

 そう言うと、ネサラはますます不機嫌に、頬は赤くなってきた。
 潔癖なこいつのことだ。どうせしばらく風呂に入ってねえことでも気にしてるんだろうが、わかってねえな。
 匂いってのはないよりもある方がそそられる。こいつの場合はもっと体臭がきつくてもいいぐらいだ。
 参ったな。駄目だ。我慢できねえ。

「ティバーン…!」

 頬に手を添えて強引に仰向かせたら、とたんにきつくなった目が睨む。だが、逆効果だ。
 眦から耳まで染めて睨まれたって怖くもなんともねえよ。

「………だめだって………」

 いつもなら、まず額や頬から行くところを、今日は違う。黙ったまま頬を傾けて口づけようと近づくと、ネサラは消え入りそうな声で呟いて、翼まで小さく震わせた。
 近すぎる場所にある俺の顔がいたたまれねえとでも言うように、睫毛が揺れて伏せられる。
 ネサラの唇から白い吐息がこぼれた。
 その吐息を唇に感じて笑うと、俺は観念したように目を閉じたネサラを抱く腕に力を込めて柔らかな唇に唇を重ねた…はずだった。

「!」

 後ろから近づいた気配に先に気がついて弾かれたように強張ったネサラを片手に抱いたまま振り返ると、そこには壮年といっていい年齢の鴉の男がいた。
 手に持ってるのは掃除道具だ。そうか。この男がこの辺りの手入れをしていたんだな。

「あ…申し訳ありません。鳥翼王様がおられるとは露知らず……失礼をいたしました」
「おまえ…おまえは……鴉だな?」

 俺たちの前まで飛んできて雪にまみれるのにも構わず平伏して小さくなった男に、ネサラがかすかに震える声で訊いた。
 そうだった。この城には鴉の元奴隷がいたんだったな。

「はい」
「どうしてこの城に…!? まさかおまえ、奴隷として飼われてるんじゃ」

 ネサラの剣幕に怯えた様子になった男の姿に、俺は正直、衝撃を受けた。
 この男は、ネサラの父親どころか、祖父さんと言ってもいいような年齢だ。いや、早く子を作る家系ならもっと上でもいい。
 ベオクのほとんどもそうなんだろうが、ラグズは特に年長者を尊ぶ。
 それなのに、こんなに若いネサラ相手に怯える様子が異様で、それこそが奴隷として絶対服従を叩き込まれた結果なのかと思った。

「ネサラ、この男はベグニオンの解放奴隷だ。行くところがなくてここの城主が引き取ってくれたらしい」
「行くところがない…? そんなはずはないだろう! 解放奴隷のことなら、ベグニオンのトパックたちが引き受けてるはずだし、鴉の民なんだったらどうして俺やあんたに話が来ないんだ!?」

 とりあえず見聞きしたことを説明したんだが、それで納得するはずがねえわな。
 さらに声を荒げたネサラにまるで鞭でも打たれるんじゃねえかって様子で怯える男が哀れになって、俺はそっとネサラの背を撫でた。
 最初は俺の手をうざそうにしていたネサラも理由がわかったんだろう。なんとか落ち着きを取り戻した様子で自ら片膝をつき、震える男の手を取って声を掛けた。

「あの、よ、汚れてしまいます」
「顔を上げろ。おまえはもう奴隷じゃない。なのになぜこの城にいる? ここの城主がおまえを引き取ったとはどういうことだ?」

 声は柔らかいが確かな詰問に困ったように鴉の男が俺を見たが、俺に言えることなんざ一つしかねえ。

「正直に話せ。このネサラが鴉王だ」
「…!」

 どうやら、俺の付き人ぐらいに思ってたんだな。
 窪んだ目が驚愕に見開かれて慌しく俺とネサラを交互に見ると、ますます恐縮した様子で自分の上着を脱いで雪の上に置き、「鴉王様、どうぞ、せめてこの上におみ足を」とさらに小さくなった。

「よせ。俺はもう王じゃない。鴉の長には違いないが、俺の部下でもなければ奴隷でもないおまえがそこまでする必要はない。それよりもさっきの俺の問いに答えろ」

 言っている内容とは裏腹に口調が尊大なのはもう習慣だな。なにより、この男にとってはこの方が効果がある。
 低くなった声でネサラの本気が伝わったんだろう。男がおずおずと顔を上げ、ようやくネサラに説明し始めた。

「奴隷からは確かに解放されましたが……おれは、若い者のように急に生活を変えることができませんでした」
「なぜだ? トパックや…ムワリムという男には会わなかったのか? 解放奴隷はまず彼らの元に行くはずだろう」
「お会いしました。とても良くしてくださいました。ですが、おれには馴染めませんでした」

 どういう意味だ?
 わからなかったのは俺だけなのか、ネサラは黙ったまま話の続きを促した。

「そこでご主人様にお会いして、おれには翼がありますし、急使として使うには便利ですし、花壇の手入れなども得意ですから……雇っていただきました」
「……奴隷ではないんだな?」
「ようわかりません。ですが、ご主人様はとても思いやり深い方です。鞭で叩くこともしませんし、食事もきちんとくださいます。城の方々はなかなか馴染めない方もおられますが誰にも叩かれませんし、おれは幸せもんです」

 そう言った男は、そこで初めて笑顔になった。
 折れたか抜けたかで隙間のできた歯が見える。
 なんの陰りもねえ、心からの笑みだった。
 だが、その笑顔を見た俺の気持ちはどうしようもなく重くなった。きっと、ネサラもだろう。

「鴉王様……?」
「おまえが幸せなら、それが一番だ。だが、セリノスに……鳥翼族の国に戻る気はないか? 俺に仕える気持ちはないか?」
「め、滅相もございません! おれのような卑しい奴隷が、鴉王様のように貴い方に仕えるなどとんでもねえ!」
「自分で自分を卑しいなんて言うな!」

 とうとう怒鳴ったネサラに、男が小さく悲鳴を上げて縮こまった。
 年齢だけじゃなく、過酷な暴力もあっただろう。ところどころ羽根が抜けた部分がまだらに白くなり、艶のなくなった黒い翼が震える。
 そんな男とどうにも感情を抑え込めずにいるネサラを見て、俺は言った。このままじゃこの男を追い詰めるだけだからな。

「おまえの気持ちはよくわかった。俺からもおまえの主人であるエドモン卿には礼を言おう。我が同胞を篤く遇してくれたことをな」
「鳥翼王様……」
「俺たちは部屋に戻る。おまえは役目があってここに来たのだろう? しっかりと務めるんだな」
「は、はい…! はい! ありがとうございます」

 ご主人様が褒められて、そんなにうれしいか。
 輝くような笑顔になって礼を言った男に苦い気持ちで笑みを返しながら、俺は強張ったネサラの肩を抱いてこの場から飛び立った。
 納得できねえのはわかる。だが、口でいくら言ったってあいつには通じねえよ。
 それぐらいは俺にだってわかるからな。

「おお、鴉王と鳥翼王! 待たせたな!」
「どうにか着きましたーって、あれ?」
「……鴉王?」

 賑やかになった中庭を通りかかると、ようやく着けたんだな。元気に咆えるスクリミルとライ、それから出迎えのアイクがいた。
 だが今のネサラは声を掛ける余裕がねえ。いや、ここに降りれば意地でも必要な言葉と態度を搾り出すだろうが、そんな無理はさせたくなかった。
 だから片手で俺が応えてそのまま部屋に入ると、心配そうについてきたリュシオンに身振りと心で今は外して欲しいことを伝えて、改めて正面からネサラを抱きしめる。
 ネサラは泣いてはいなかった。
 だが、濃紺の眼差しも翼も震わせて頑なに俺から視線を逸らして、かすれた声で言ったんだ。

「卑しいのは…俺だって同じだ……」
「ネサラ」
「俺だって奴隷だった。キルヴァス王でも、鴉王でも……あいつらの奴隷だったんだ。同じように鞭打たれて、這いつくばって…それなのにどうしてッ」
「それでも立場が違う。わかってるだろう?」

 自分を切り刻むように吐き出したネサラの頬を両手で掴んで顔を上げさせると、初めて泣きそうにネサラの表情が歪む。
 それでも細い息をついて激情を飲み込もうとするネサラの言葉を思い出して、俺の胸にもどうしようもねえ嵐が湧き起こる。
 こいつは、元老院の連中になにをされたかを詳しく語らねえ。ただあの塔の中でネサラの顔を見て激昂したルカンが喚いた内容から想像できただけだ。
 だが、今の言葉で、その一端が確かに見えた。
 どんな思いで……畜生、あの元奴隷の男の言葉も、ルカンの言葉も聞いていたのか。そして、こいつが耐え忍んだのか。
 口づけるよりも、今はただ生きて俺の腕の中にいてくれるこいつを抱きしめたくなった。

「泣いちまえ」

 言ったところで、泣くような奴じゃねえな。自分の辛さで泣くことはできねえ奴だ。
 それでも悔しさに震える俺の胸元で握り締められた拳が堪らなくていっそう強く抱くと、ネサラはしばらく俺の肩口に顔を押し付けて黙り込み、立ち直った。
 そっと上げた顔にはもう、さっきの激情は欠片もねえ。ただ乱れた髪に名残が覗くだけだ。

「すまない。……みっともないところを見せた」

 神経質そうな手でいつものように前髪をかき上げた仕草と言い草がまんま昔の鴉王そのもので、俺は場違いにも笑いたくなった。

「気にすんな。同胞のことで頭に来るのは正しいことだろうが」
「同胞か……。向こうはそう思ってくれてないだろうな」

 そう苦笑したネサラの目がまた揺れる。
 そんなネサラの頭をがしがしと撫でてやると、どうやら心配させちまったようだな。扉の外になんとも賑やかな気配が近づいてきた。

「鴉王! 具合が悪いのか!?」
「スクリミルッ、もしそうならおまえの声は堪えるんだから静かにしろよッ!」

 いやいや、ライの声も充分でかいぜ?
 ネサラは呆れた様子で扉を振り返ったが、俺は心底可笑しくなって笑っちまった。
 ノックというより乱暴に扉を拳で三回殴る音がして、すぐに扉が開く。返事も待たねえ辺りがいかにもスクリミルらしい。心配でそれどころじゃねえってとこだろうよ。

「あぁもう! 開けるのが早いだろッ!」
「なんだ、倒れたのではないのだな。てっきり俺たちが無理をさせたから倒れたのではないかと思ったではないか!」

 耳と尻尾を立てて自分に取りすがるように怒るライを片手でぽいと投げながら、ずかずかと部屋に入ってきたスクリミルが腹を抱えて笑う俺の前に来た。
 ネサラはと言うと、まるで頭痛を堪えるように額を押さえて大きなため息をついてやがるが、いい加減こいつらにも慣れていいころだろうによ。神経質なヤツは損だな。

「ん? 鳥翼王、なにか可笑しかったか?」
「ははは…! いやいや、相変わらずでほっとしたんだよ。道中、不便はなかったか?」
「うむ、俺はないな。ただ鴉王には何度も『喉を鳴らすな』と怒られた。化身した時に機嫌が良いとどうしても鳴るものだから参った。かといって化身せずに抱えて眠ると寒いだろうしな」
「あー、獣牙族の喉はしょうがねえな」
「そうだろう? あとは風呂か。鴉王はずいぶん綺麗好きなのだろうな。知ってるか? 鴉王は手巾を五枚も持ち歩いてるのだぞ? 五枚だ! 最初は食事のたびに『手を洗え』だし、洗ったら洗ったで『拭け』だし、その五枚でも足りずに風呂も入れない、洗えないで落ち込んでな。ライが水汲みのついでに洗ってきたんだが今度は乾かなくて――」
「その話はもういい! 長旅なのに手巾の一枚も持って来ないあんたたちがおかしいんだッ! ろくに洗えそうにない移動なら、替えを用意するのは当然のことだろう!?」
「む? そうなのか?」
「いや、俺に聞かれてもな」

 俺たちがそんなもん用意するように見えるか? そんな意味を込めて不思議そうに顔を見合わせた俺たちに、本当に頭が痛くなった様子でネサラが項垂れる。

「ど、どうも申し訳ありません。でも、オレはちゃんと持ってるんですよ?」
「……知ってる。まあ、おまえがスクリミルの分も持ち歩くのが正解だな」
「使ってくれたら持ち歩く甲斐もあるんですけどねえ……」

 猫は獅子や虎に比べたら骨格からして華奢に見えるが、それでも獣牙族だけあって丈夫なんだな。スクリミルに投げられても堪えた様子もなく頭を下げたライの耳も尻尾もへたれていて、なんだか可哀想になっちまった。
 確かに使わねえだろうな。俺も使わん。
 もっとも、手巾は手を拭くだけじゃなくてちょっとした手当てに使えるから、さすがに俺は一枚は懐に入れてるけどな。

「まあ、とにかく合流できてなによりだ! 飯の前にまずは温まるとしよう! さあ鴉王、おまえが待ちかねた風呂だ! 行くぞ!」
「え!? おい、ちょっと…」
「おお、いいじゃねえか。俺も朝風呂と洒落込むか。いちいち焚き直させるのも贅沢な話だ。ネサラ、行くぜ」
「いいですねえ! じゃあオレ、ひとっ走り着替えを用意しますよ!」

 あげく、豪快に笑ったスクリミルが前よりは手加減してネサラの肩を叩きながら言うものだから、俺はそれに乗ることにした。
 まさか、本気でいっしょに入るつもりなのか!? そう言いたそうに俺を見上げた顔が本気で焦ってるのが可笑しい。
 いいじゃねえかよ。男同士なんだ。俺と二人きりなら逆に危ねえが、こいつらといっしょなら俺も落ち着いていられるだろうし、たまには裸の付き合いだってすりゃあいい。

「ネサラ、行くぞ」
「ティバーン…!」

 肌を晒さないのは鴉の習慣。裸で語り合うのは鷹の習慣。ついでに、獣牙の習慣も似たようなもんだ。
 まあ、これも多数決ってヤツだな。
 それに、くさくさした気分になっちまった分、少しぐらい明るい話があったっていいだろ。
 そう思ってなおも抵抗するネサラをずるずると引きずると、俺は大急ぎで仕度を整えた女官を下がらせて暖まった脱衣所に入った。
 得意な口笛を吹きながら手早く脱いでいく俺と、やっぱり豪快に脱ぎ散らかすスクリミルに頑なに背を向けたネサラの殺気のこもった視線に笑いながら、俺はにこにこと着替えを持って入ってきたライを手招いて隅に置かれていた衝立を出してやった。





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